飛沫-shibuki-


剣は要らない、欲しいのはその枷だけ

彼に剣は似合わない。 いつかの貴族の言葉を借りるなら、ごみのような男。
お前にはこれで十分だと使い古してカビの生えたボロ雑巾を渡された。

数多の国を、種族を滅ぼし、それでも彼の渇きが止む事はない。
潤う命などない、そんなものは消し屑以下の下等な生命だ。

殺して、殺して。
その先に待つものは闇でも死でもなく、果てしない無だ。
誰かを殺す事に躊躇いを感じなくなる。
生きている感覚が日に日に薄れていく。
それこそが、無。

虚勢を張ったところで生きていられる者はほんの一握り。
いつか死ぬ時が来る。
それが遅いか早いかの違いではないか。
何故研究者達が躍起になって不老不死を作り出そうとしているのか、彼には理解出来なかった。

この世の摂理とは実に単純明確なものだ。
強者が上に立ち、弱者は地に這い蹲う。
どう足掻いても勝てないと知りながら尚抗いのたうち回る弱者、それを高台から見下ろし滑稽だと笑い飛ばすのが強者だ。

どんな時代も弱肉強食、これに勝る言葉など他にない。

「お時間です」
「……ああ、分かっている」

王の首を刎ねんとする逆賊は、闇夜に感覚を奪われていた。
視覚は当てにならない。
王宮特有の香が辺り一面に充満し、鼻も使い物にならない。
頼りになるのは聴覚くらいか。
息を殺し、足を忍ばせる……完全に気配を消したと思っていた。

「誰?」
「っ……!」

闇の中幽かに浮かんだ紺の瞳。
小さく、すぐに掻き消えてしまいそうな儚い声。
鈴の音のような、心地好い音。

「そこに誰かいるのですか?」

咄嗟に逆賊は懐に隠し持っていた小刀を抜いた。
鈴の音を奏でた人物の首筋に押し当て、静かにしろと警告する。

動けば即座に首を刎ねる。
そう言っても尚、少女は動揺を見せる事はなかった。
王族の為せる業か、恐ろしいほど落ち着いている。

「父を、殺しにきたのですか」
「そうだと言ったら……?」
「悲しい、です」

小刀を握る手に温かい雫が一滴落ちる。
これから暗殺されるであろう父を想っての涙か、それとも恐怖による生理現象か。
どちらにせよ逆賊を変えるだけの価値はない。

「悲しい、人ですね」
「何だと……?」
「貴方は悲しい人。己の運命に縛られ逃れる事も叶わず、こうして人に刃を向ける」

悲しい生き方です、その言葉に憤った逆賊は、少女の小さな身体を突き飛ばしていた。
幽かな呻き声で我に返り、再び少女へと足を進める。

「貴方に剣は似合いませんわ」

ぴたりと、歩みを止める。
彼の中では進んでいるつもりだった。
だが周りからは呆然と立ち竦んでいるようにしか見えない。

「貴方は恐ろしい、そして悲しい人です。けれどとても優しい人。この温かな手が証明してくれていますわ」

手に触れる温もり。
初めて感じた優しさに、逆賊の身体は小さく震えを見せる。

彼は少女の言葉に耳を傾けていた。
間違いなく弱者の意見で、本来斬り捨てるべきもの。
それでも、この少女だけは何かが違うと思った。
私欲に満ちた奴らとは違う、何かが少女の中にはあると感じていた。
いや、信じていたのかもしれない。

「貴方は世界の醜い部分を知っている。だからこそ世界の優しさにも気付けるはずです」
「世界の優しさ、だと……!?」
「私は信じているのです。勉学に励み、夢を追い、友と笑い合う……そんな当たり前の世界がいつか必ず来ると」

この姿を目にして少女の光は消える事なく輝いていた。
それが疎ましく、同時に羨ましくも感じていて。

「貴方に剣は似合いません。それは貴方が弱いからではなく、強いから。本当に強い人は剣などなくとも世界を変えられるのです」

彼に剣は似合わない。
何故なら、彼にはすでに枷が付いていたからだ。
少女に出会ったこの時から、名を捨て顔を捨て自分を偽って生きる事になる。
それこそが自分に付けた戒めの枷。
少女も、そして少女の家族をも殺せなかったのは過去を悔いていたからだ。
弱肉強食を否定したかったのは、否定していたのは、自分だったのだ。

「ならば見せてみよ。貴様の言う、当たり前の世界とやらを」

願わくば、少女の光の枷を。
明日を生きたいと。

消えゆく、刹那の夢。